「日本人はなぜ無宗教なのか」 (ちくま新書) 阿満 利麿
概要
日本人は無宗教であると言われるがはたしてそれは本当だろうか。筆者は宗教をキリスト教やイスラム教などの「創唱宗教」と自然発生的で先祖を敬うなどの「自然宗教」に分け、日本人が無宗教という時の宗教はあくまで「創唱宗教」であるとする。では、なぜ日本で「創唱宗教」が根付かず「自然宗教」が発展していったのか。本書ではその背景を日本の歴史や民俗学を通して解明していく。
要約、その他雑記
日本人は無宗教であるという時の宗教とはあくまで「創唱宗教」である。
このような宗教は特定の人物がある教義を唱えるといったものでキリスト教やイスラム教が例に挙げられる。
この点に関してはたしかに日本人は無宗教であると言えるかもしれない。
例えば、キリスト教徒に関しては日本人口の約1%のみが信じており(宗教年鑑平成27年度版のデータより)、これは世界人口の約3割と比べてみてもかなり低い数字と言える。
では、なぜ日本でこのような「創唱宗教」が広まらなかったのか。
本書では様々な理由が挙げられているがここではそのうちの一つを紹介してみる。
日本人の精神を根底で支えているものの考え方のひとつとしてムラの精神が挙げられるだろう。
筆者はムラとは昔から人々がひとまとまりになって暮らしてきた生活単位であるとし、行政のためにつくられた村とは異なるとする。
明治時代にはこのようなムラは7万ほど存在していたのだが、このような生活集団にとって最も大事なことは何かにつけて(物質的にだけでなく感情的にも)一つにまとまるということであった。
おそらくこうした小さなムラではそれぞれが自分の主張を繰り返しているとあっという間にバラバラになってしまうのでこのようなまとまりを作る必要があったのだろう。
そこでは村共有の雑木林などの均等分配はもちろんのこと、誰かが幸福であるなら誰かが影口を言い、誰かの悲しみや不幸を誰かが喜ぶという感情の均質化まで行われていたという。
#日本人の出る杭は打たれるという特徴も、もちろんこのムラ思想から由来しているだろう。
悪はもちろんのこと大きすぎる善までもがムラの秩序を乱すものとしてみなされるこのような社会では宗教もムラを超えない範囲でしか認められないということになる。
つまり、日本人はあらゆるところで平凡思考なのであり、キリスト教のような強い超越性を持つ神はムラという社会で受け入れられず、神も日常生活に留まるものに限定されたのである。
そこで日本人に受け入れられたのが「自然宗教」であり、具体的には先祖を大切にし敬うとともにムラの鎮守への敬虔な信仰を行うことである。
お盆や初詣といった行事も「自然宗教」信仰の一環と言えるだろう。
ところでなぜ日本人はこうした「自然宗教」を信じているのにも関わらず自らを無宗教であると称するのか。詳細は本書で詳しく書かれているので是非一読を!!